M&Aのハードルレートと投資判断基準|IRR・NPV・回収年数の使い方
最終更新: 2026-11-05・M&Aバリュークラウド(株式会社ベルシャンス)・ 編集方針
結論から言うと、買収の投資判断は「ハードルレート(自社の資本コストであるWACCに、案件固有のリスクを上乗せした最低限の要求利回り)で割り引いたNPVがプラスか、IRRがハードルレートを上回るか」を主軸にし、投資回収年数・のれん償却後の利益とEPS・ROICを補助の物差しとして並べるのが基本です。どれか一つの指標だけで「買う/見送る」を決めると、それぞれの弱点がそのまま判断の誤りになります。そして、同じ会社でも価格が変われば結論は変わります。判断基準を先に決めておけば、「この価格までなら買える」という上限価格が、基準から逆算して自然に出てきます。
この記事は、買収を検討している事業会社の経営企画・M&A担当者の方に向けて、社内で「この会社を、この価格で買うか」を判断するための基準の作り方を整理したものです。ハードルレートの決め方、IRR・NPV・回収年数それぞれの意味と弱点、会計上の影響(のれん償却後の利益・EPS)、ROIC、稟議や取締役会での見せ方を、仮の数字を使った通しの計算例で確かめていきます。
買収の投資判断は「基準を先に決め、価格を後で当てる」
買収の検討が進むと、担当者はどうしても対象会社に愛着が湧き、「どうすれば承認が取れるか」という発想で数字を組みがちです。シナジーを少し厚めに見る、出口の倍率を少し高めに置く、といった調整を重ねると、どんな価格でも投資基準を満たすように見えてしまいます。これを防ぐには、案件ごとに基準を作るのではなく、社内で共通の判断基準を先に決めておき、個別案件の数字をそこに当てる順番にすることが大切です。
判断の物差しは、大きく分けて「価値の物差し」「回収の物差し」「会計の物差し」「資本効率の物差し」の4つです。それぞれ答えている問いが違うため、役割を分けて並べると議論が整理されます。
| 物差し | 代表的な指標 | 答える問い | 主な弱点 |
|---|---|---|---|
| 価値 | NPV(正味現在価値) | この価格で買うと、要求利回りを超えて株主の価値がいくら増えるか | 割引率と出口価値の前提で大きく動く |
| 利回り | IRR(内部収益率) | この投資は年何%で回るか。ハードルレートを上回るか | 規模を表さない。出口の比重が大きいと見かけ上高くなる |
| 回収 | 投資回収年数(ペイバック) | 何年で投じた資金を取り戻せるか | 回収後のキャッシュフローと時間価値を無視する |
| 会計 | のれん償却後の利益・EPS | 連結決算の利益と1株当たり利益がどう変わるか | キャッシュの価値と一致しない。会計基準で結果が変わる |
| 資本効率 | ROIC(投下資本利益率) | 買収に投じた資本に対して、事業がどれだけ稼ぐか | 単年度の数字で、立ち上がり期は低く出やすい |
実務上は、NPVとIRRで「価値を生む投資か」を判定し、回収年数で「資金の固定期間とリスクの大きさ」を、EPSで「決算への見え方」を、ROICで「買収後に事業部の目標として追える形か」を確かめる、という役割分担にすると使いやすくなります。
ハードルレートの決め方:WACCに案件リスクを上乗せする
ハードルレートは、「この投資からは最低でもこれだけの利回りを求める」という線です。出発点になるのは、自社の資金調達コストの加重平均であるWACC(加重平均資本コスト)です。WACCを下回る利回りしか得られない投資は、資金を出している株主と債権者の期待に応えられず、実行するほど企業価値を減らすことになります。WACCの中の株主資本コストはCAPMで推計するのが一般的で、WACC計算ツールを使えば、無リスク利子率・β・市場リスクプレミアム・負債コスト・資本構成から手早く試算できます。
自社のWACCではなく「対象事業のWACC」を基準にする
注意したいのは、買収で使う割引率は、本来は買い手自身のWACCではなく、対象会社の事業リスクに見合ったWACCだという点です。安定した事業を営む買い手が、成長途上で変動の大きい事業を買う場合、自社のWACCで割り引くと対象会社の価値を高く見積もりすぎます。逆に、リスクの低い事業を買うのに自社の高いWACCを当てはめると、価値を低く見積もり、良い案件を見送ることになります。異業種の買収では、対象会社と事業が近い上場企業のβを参考に、対象事業のWACCを別に置くのが筋です。
案件固有のリスクを上乗せする
そのうえで、多くの会社では、案件ごとの事情に応じてWACCにリスクの上乗せ(プレミアム)を加えた数字をハードルレートにしています。上乗せの理由として、たとえば次のようなものが挙げられます。
- 規模・流動性:対象会社が小さく、特定の顧客や経営者への依存度が高い。非上場株式で、売りたいときにすぐ売れない。
- 情報の非対称性:デューデリジェンスで確認できる範囲に限りがあり、簿外の問題が残る可能性がある。
- 統合の難しさ:初めての業種や地域で、PMIの経験やノウハウが社内にない。
- カントリー・為替リスク:海外の会社を買う場合、政治・制度・通貨のリスクが加わる。
- 事業計画の確度:計画が売り手主導で作られ、買い手の検証が十分でない。
上乗せ幅の数字について、公的な統計や一律の基準はありません。各社が自社の資本コスト、過去の買収の実績、事業ポートフォリオの方針に照らして設定しているものです。大切なのは数字そのものより、「なぜこの幅なのか」を案件の外で決めておくことです。案件ごとに上乗せ幅を交渉するようになると、承認を通したい側が幅を小さく見積もる動機が働きます。
リスクの「二重計上」を避ける
もう一つの落とし穴は、同じリスクを割引率とキャッシュフローの両方で織り込んでしまうことです。たとえば、事業計画の段階で売上を保守的に引き下げたうえで、さらにハードルレートに大きな上乗せをすると、リスクを二重に差し引くことになり、価値を過小に見積もります。「計画は中立的な見通しで作り、不確実性は割引率で」「割引率はWACCのままにし、不確実性はシナリオと確率で」のように、どちらで織り込むかを決めて一貫させましょう。シナジーだけを別の割引率で評価する方法もあり、その考え方はM&Aのシナジーとはで整理しています。
IRR・NPV・投資回収年数の意味と弱点
NPV:価値を生むかどうかの主軸
NPV(正味現在価値)は、買収後に得られるキャッシュフローと出口価値をハードルレートで現在価値に割り引き、その合計から買収価格を差し引いた金額です。NPVがプラスであれば、要求利回りを満たしたうえで、さらに株主の価値が増えることを意味します。考え方はDCF法と同じで、DCF法で出した「対象会社の価値」と「支払う価格」の差がNPVだと捉えると分かりやすいでしょう。
NPVの強みは、金額で答えが出るため、複数の案件や「買う・買わない」を同じ単位で比べられることです。一方で、割引率と出口価値(継続価値)の前提に大きく左右されます。5年程度の計画期間で見る場合、価値の過半が出口の価値で占められることも珍しくありません。出口価値の考え方は継続価値(ターミナルバリュー)とはで解説しています。
IRR:利回りで比べる物差し
IRR(内部収益率)は、NPVがちょうどゼロになる割引率です。「この買収は年何%で回る投資か」を示し、ハードルレートと直接比べられるため、取締役会での説明に向いています。IRRがハードルレートを上回れば、その割引率で計算したNPVはプラスになります(通常のキャッシュフローの形であれば両者の判定は一致します)。
ただし、IRRには次のような弱点があります。
- 規模が分からない:小さな案件のIRR20%と大きな案件のIRR12%では、生み出す価値の額は後者のほうが大きいことがある。
- 出口の前提に引っ張られる:保有期間の最後に大きな出口価値を置くと、途中のキャッシュフローが細くてもIRRは高く出る。
- 再投資の前提:途中で得たキャッシュフローをIRRと同じ利回りで再投資できると暗に置いているため、高いIRRほど過大になりやすい。
- 解が一つに決まらない場合がある:途中で大きな追加投資があり、キャッシュフローの符号が何度も入れ替わると、IRRが複数出たり求まらなかったりする。
借入を使う買収では、事業全体のIRR(プロジェクトIRR)と、自己資金に対するIRR(エクイティIRR)を区別することも大切です。借入の比率を高めればエクイティIRRは上がりますが、それは事業の価値が増えたからではなく、財務レバレッジでリスクを取っているからです。仕組みはLBOとはで解説しています。
投資回収年数:分かりやすいが「物差しの一つ」にとどめる
投資回収年数(ペイバック期間)は、買収で得たキャッシュフローの累計が買収価格に達するまでの年数です。社内で最も直感的に伝わる指標で、「10年以内に回収できない案件はやらない」といった目安を置いている会社もあります。資金が固定される期間とリスクの長さを示すという意味では有用です。
しかし、回収年数は回収した後のキャッシュフローをまったく評価しないうえ、割り引かない単純回収年数では時間価値も無視します。成長企業のように後半にキャッシュフローが厚くなる案件は不利に、短期で稼いで先細りする案件は有利に見えます。また、買収では出口の売却を想定しない(持ち続ける)ことが多いため、単純回収年数は保有期間を超えて長くなりがちです。割り引いた回収年数(割引回収期間)を併記すると、時間価値を考慮した場合の長さも分かります。回収年数は「長すぎないかの確認」に使い、合否の主軸にはしないのが無難です。
計算例:買収価格を変えると判断はどう変わるか(仮の数字)
ここからは、すべて説明のための仮の数字で、一つの案件を通しで計算します。実在の会社や業界の水準を示すものではありません。数値はPythonで検算しています。
前提(仮の数字)
- 対象会社:直近のEBITDAは2.0億円。純有利子負債はゼロ(無借金・余剰現預金なし)と仮定し、買収価格=企業価値(EV)とする
- 対象会社単独のFCF(税引後):1年目1.40億円、以降年2%成長
- シナジー(税引後):1年目0、2年目0.15億円、3年目以降0.30億円
- 統合コスト(税引後):1年目に0.20億円
- 出口:5年目末に、5年目のEBITDA(直近2.0億円が年2%成長して約2.21億円)×6倍=約13.25億円で評価する
- ハードルレート:8%(対象事業のWACCを6.5%、案件リスクの上乗せを1.5ポイントと仮定)
年度別のキャッシュフロー
| 年度 | 単独FCF | シナジー | 統合コスト | 事業キャッシュフロー |
|---|---|---|---|---|
| 1年目 | 1.40億円 | 0 | ▲0.20億円 | 1.20億円 |
| 2年目 | 1.43億円 | 0.15億円 | - | 1.58億円 |
| 3年目 | 1.46億円 | 0.30億円 | - | 1.76億円 |
| 4年目 | 1.49億円 | 0.30億円 | - | 1.79億円 |
| 5年目 | 1.52億円 | 0.30億円 | - | 1.82億円(+出口13.25億円) |
ハードルレート8%で割り引くと、5年間の事業キャッシュフローの現在価値は約6.41億円、出口価値の現在価値は約9.02億円で、合計は約15.42億円です。つまり、この前提では15.42億円までなら、8%の要求利回りを満たすことになります。シナジーと統合コストを除いた単独の数字だけで計算すると、合計は約14.82億円です。
価格別の判定
では、買収価格を11億〜17億円の範囲で動かすと、各指標はどう変わるでしょうか。回収年数は出口の売却を含まない単純回収年数で、6年目以降もFCFが年2%で伸び、シナジーが続くと仮定して計算しています。
| 買収価格 | EV/EBITDA | NPV(8%) | IRR | 単純回収年数 | 判定(シナジー込み) | シナジーなしのNPV・IRR |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 11億円 | 5.5倍 | +4.42億円 | 17.3% | 約6.5年 | 基準を満たす | +3.82億円・16.1% |
| 13億円 | 6.5倍 | +2.42億円 | 12.6% | 約7.6年 | 基準を満たす | +1.82億円・11.5% |
| 14億円 | 7.0倍 | +1.42億円 | 10.5% | 約8.1年 | 基準を満たす | +0.82億円・9.5% |
| 15億円 | 7.5倍 | +0.42億円 | 8.7% | 約8.6年 | かろうじて満たす | ▲0.18億円・7.7% |
| 17億円 | 8.5倍 | ▲1.58億円 | 5.5% | 約9.6年 | 見送り | ▲2.18億円・4.5% |
この表から読み取れるポイントは3つあります。第一に、同じ会社でも、価格が2億円上がるだけでNPVは2億円減り、判定が「買う」から「見送る」に変わるということです。会社の良し悪しではなく、「その価格で買うか」が投資判断の問いだと分かります。第二に、15億円はシナジー込みでは基準をかろうじて満たしますが、シナジーを除くと基準を下回ります。つまり15億円で買うことは、「シナジーの実現に賭けて、ようやく要求利回りに届く」投資だということです。第三に、11億円でも単純回収年数は6年を超えます。回収年数だけで「5年以内」といった基準を置くと、価値を生む案件まで見送ることになりかねません。
この結果から上限価格を決めるなら、たとえば「シナジーなしでもNPVがプラスに残る14億円前後を上限にし、15億円を超える場合は見送る」といった整理が考えられます。上限価格をスタンドアロン価値とシナジーの乗せ方から組み立てる手順は買収価格の決め方と同じ考え方で、投資基準の側からも同じ水準が確かめられれば、稟議での説明の説得力が増します。売り手の希望価格がEV/EBITDAで何倍に当たるかは、買収価格の妥当性チェックで逆算できます。
前提を動かすと結論はどれだけ変わるか
買収価格13億円のケースで、出口倍率とハードルレートを動かすと次のようになります。
| 変えた前提 | NPV | IRR |
|---|---|---|
| 出口倍率5倍(基準6倍) | +0.92億円 | 9.8% |
| 出口倍率6倍(基準) | +2.42億円 | 12.6% |
| 出口倍率7倍(基準6倍) | +3.93億円 | 15.0% |
| ハードルレート7% | +3.04億円 | 12.6%(変わらない) |
| ハードルレート10% | +1.29億円 | 12.6%(変わらない) |
出口倍率を1倍動かすだけで、NPVは約1.5億円動きます。この例では価値の約6割を出口価値が占めているため、出口の前提が判断を大きく左右します。出口倍率は買収時の倍率(この例では6.5倍)より高く置かない、少なくとも保守的なケースでも基準を満たすかを確認する、といったルールを置いておくと、楽観的な前提で判定が甘くなるのを防げます。なお、IRRは割引率を使わずに求めるため、ハードルレートを変えても値は変わらず、比べる相手が変わるだけです。
こうした計算は、買収の投資回収シミュレーションで、買収価額・FCF・成長率・シナジー・統合コスト・出口倍率・割引率を入力すると、年度別のキャッシュフローとともに回収年数・NPV・IRRを確認できます。買収資金の一部を借入で賄う場合のエクイティIRRも出せるので、価格や前提を変えて判定がどこで切り替わるかを試してみてください。
会計の物差し:のれん償却後の利益とEPSへの影響
NPVやIRRがキャッシュフローで見た投資の良し悪しを示すのに対して、取締役会や株主が気にするのは「連結決算の利益がどうなるか」です。ここで大きく効いてくるのが、のれんです。買収価格が対象会社の時価純資産を上回る部分は、のれんとして連結貸借対照表に計上されます(実際には、顧客関係や技術などの無形資産を識別して配分する手続きを経ます。詳しくはPPA(取得原価の配分)とは)。
日本基準とIFRSで扱いが違う
- 日本基準:企業会計基準委員会(ASBJ)の企業会計基準第21号「企業結合に関する会計基準」第32項で、のれんは資産に計上し、20年以内のその効果の及ぶ期間にわたって、定額法その他の合理的な方法により規則的に償却するとされています。毎期の償却費が利益を押し下げます。
- IFRS:IFRS第3号「企業結合」のもとでのれんは償却せず、IAS第36号「資産の減損」により、少なくとも年1回(および減損の兆候があるとき)減損テストを行います。毎期の償却負担はない代わりに、業績が想定を下回ったときに一度に大きな減損損失が出る可能性があります。
償却年数の決め方と両基準の違いはのれん償却とはで、減損の手順はのれんの減損テストとはで解説しています。なお、のれんの会計処理については見直しの議論が続いており、実際の処理や最新の基準の扱いは監査法人・公認会計士に確認してください。また、株式取得で生じた連結上ののれん償却は、一般に税務上の損金にはならないとされますが、取引の形態によって扱いが異なるため、税務は税理士等の専門家に確認が必要です。
計算例:のれん償却後のEPS(仮の数字)
先ほどの案件で、対象会社の当期純利益を1.1億円、時価純資産を6.0億円、識別できる無形資産はないものと仮定します。買収資金は全額を金利1.5%で借り入れ、支払利息には実効税率30%の節税効果があるとします。のれんは10年で償却し、買い手の発行済株式数は1,000万株とします。
| 項目 | 買収価格13億円 | 買収価格15億円 |
|---|---|---|
| のれん(買収価格-時価純資産) | 7.0億円 | 9.0億円 |
| 対象会社の当期純利益 | 1.10億円 | 1.10億円 |
| のれん償却(10年) | ▲0.70億円 | ▲0.90億円 |
| 買収借入の利息(税引後) | ▲0.14億円 | ▲0.16億円 |
| 連結純利益の増加(日本基準) | +0.26億円 | +0.04億円 |
| EPSへの影響(日本基準) | +約2.6円 | +約0.4円 |
| 連結純利益の増加(のれん非償却の場合) | +0.96億円 | +0.94億円 |
日本基準では、価格が13億円から15億円に上がるだけで、のれん償却の増加と利息の増加により、EPSへの上乗せはほぼ消えます。15億円でさらに統合コストが出る初年度は、EPSが減る(希薄化する)可能性もあります。逆に、のれんを償却しない場合は利益への影響が小さく見えますが、その分、業績不振時の減損リスクを抱えます。EPSの考え方はBPS・EPSとはを参照してください。
ここで大切なのは、EPSは合否の主軸にしないことです。のれん償却は現金の支出ではなく、EPSが下がる案件でもNPVがプラスなら株主の価値は増えます。一方で、EPSが毎年減る案件は株主や金融機関への説明が難しくなるため、「EPSが何年目からプラスになるか」を稟議に併記しておくのが実務的です。
資本効率の物差し:ROICで買収後の目標に落とす
ROIC(投下資本利益率)は、事業に投じた資本に対して、税引後の営業利益(NOPAT)がどれだけ出ているかを示す指標です。買収の場合、投下資本にはのれんを含む買収価格を置いて計算するのがポイントです。対象会社の帳簿上の資本で計算すると高いROICが出ますが、買い手が実際に投じた資本に対しての利回りではありません。指標の基本はROEとROICの違いで解説しています。
先ほどの例で、対象会社単独のNOPATを1.3億円、シナジー実現後を1.6億円とすると、ROICは次のようになります。
| 買収価格(投下資本) | 単独(NOPAT 1.3億円) | シナジー実現後(NOPAT 1.6億円) |
|---|---|---|
| 13億円 | 10.0% | 12.3% |
| 15億円 | 8.7% | 10.7% |
いずれも仮のWACC6.5%を上回っていますが、15億円で買うと単独ROICはハードルレート8%に近づきます。ROICの良いところは、買収後に事業部の管理指標としてそのまま使えることです。「3年目にシナジー込みでROIC12%」のように目標を置けば、買収後のモニタリングと、稟議時の前提が実現しているかの検証がつながります。統合の進め方はPMIとはが参考になります。
上限価格との関係:投資基準から逆算する
投資判断基準と上限価格は、同じことを裏表から見たものです。「ハードルレートでNPVがゼロになる価格」が、投資基準から見た理論上の上限です。計算例でいえば、シナジー込みで約15.42億円、シナジーなしで約14.82億円でした。
ただし、NPVがゼロの価格まで払うと、買い手にはリスクに見合う最低限の利回りしか残らず、前提が少し崩れただけで基準を割り込みます。そこで実務では、次のような複数の条件を同時に満たす価格を上限にすることが多くなります。
- ベースケース(シナジーを確度で割り引いたもの)でNPVがプラス、IRRがハードルレートを上回る
- シナジーなし、または保守的なケースでも、NPVが大きくマイナスにならない
- 単純回収年数が、社内で決めた上限(たとえば10年など、各社が設定する目安)を超えない
- のれん償却後のEPSが、一定年数以内にプラスになる
- 借入で賄う場合、対象会社のキャッシュフローで返済でき、財務制限条項に抵触しない
どの条件を必須とし、どれを参考にするかは、自社の財務方針で決めるものです。重要なのは、交渉の前に条件を決め、交渉中に条件を緩めないことです。前提が変わって上限を見直す場合は、変わった前提を示したうえで改めて承認を取り直すのが筋です。
稟議・取締役会での見せ方
稟議書や取締役会資料では、承認する側が短い時間で「この価格で買ってよいか」を判断できるよう、結論・根拠・リスクの順に示します。会社法上の取締役会決議の要否や付議の論点はM&Aの取締役会決議で整理しています。投資判断の部分は、次の構成にしておくと質問に先回りできます。
| 記載項目 | 書く内容 | 想定される質問 |
|---|---|---|
| 投資基準と判定 | ハードルレートの水準と内訳(WACC+上乗せ)、NPV・IRR・回収年数の結果、基準を満たすかどうか | 上乗せ幅は何を根拠にしたか |
| 価格別の判定表 | 提示価格・目標価格・上限価格それぞれのNPV・IRR・回収年数 | どこまで価格が上がったら見送るのか |
| シナジーの有無 | シナジーを除いた単独ケースの判定 | シナジーが出なかったら損をするのか |
| 感応度 | 出口倍率・割引率・成長率・シナジー実現度を動かしたときのNPV | 最悪のケースでどうなるか |
| 会計上の影響 | のれんの見込み額、償却年数、EPSへの影響と黒字化の年度、減損リスク | 決算でいつまで利益が圧迫されるか |
| 買収後の目標 | ROIC・シナジーの年度別目標と担当部署、モニタリングの時期 | 誰が責任を持って達成するのか |
価格別の判定表は、承認範囲を「上限○億円まで」と明確にできるため、交渉の現場に権限を渡しやすくなります。また、計画の前提に使った事業計画が誰の作成で、買い手がどう修正したかも必ず書いておきましょう。売り手の計画をそのまま使っていると、どの指標を並べても根拠が弱くなります。
株式取得の稟議書と取締役会付議資料のひな形は、買い手向けの無料ひな形からWordで入手できます。稟議書のひな形には「投資回収の見通し」の欄があるので、上の計算例のような価格別のNPV・IRR・回収年数をそのまま転記できます。添付する算定書の考え方は稟議に使える株価算定書の作り方を参照してください。
買収の投資判断でよくある失敗
- 買い手自身のWACCで割り引く:対象会社の事業リスクが自社と違うのに、自社のWACCをそのまま使い、価値を過大または過小に見積もる。
- 案件ごとにハードルレートを動かす:通したい案件で上乗せ幅を小さくし、基準が形骸化する。上乗せの考え方は案件の外で決めておく。
- IRRだけで判断する:出口の比重が大きい案件や小規模な案件でIRRが高く出て、価値の額や出口の前提への依存度が見落とされる。
- 出口倍率を買収時より高く置く:「買った後に業績が伸びれば倍率も上がる」という楽観で、価値の過半を占める出口価値を押し上げてしまう。
- シナジー込みの数字しか示さない:シナジーが出なかった場合に基準を割り込むことが、承認する側に見えない。
- 回収年数を合否の基準にする:長期で価値を生む案件を見送り、短期で稼いで先細りする案件を選んでしまう。
- のれん償却を考えずに価格を上げる:キャッシュフローの判定は通っても、償却負担でEPSが長く減り、株主や金融機関への説明に苦しむ。
- 統合コストと取引費用を入れ忘れる:アドバイザー報酬、デューデリジェンスの費用、システム統合費などを除いて計算し、NPVが実際より良く見える。
- 企業価値と株式価値を取り違える:純有利子負債のある会社で、EVで計算した価値と株式の取得価格を比べてしまう。違いは企業価値・事業価値・株式価値の違いを参照。
まとめ:基準を決め、価格別に判定し、会計と資本効率で補う
買収の投資判断は、①対象事業のWACCに案件リスクを上乗せしたハードルレートを先に決め、②NPVとIRRで価値を生むかを判定し、③回収年数で資金が固定される期間を、のれん償却後のEPSで決算への影響を、ROICで買収後の目標を確かめる、という順で組み立てるのが基本です。同じ会社でも価格によって結論は変わるため、価格別の判定表を作り、シナジーなしのケースや出口倍率の感応度も並べて、「どの価格までなら買えるか」を稟議で明確にしておきましょう。
数字はすべて前提次第で動くため、どの指標も「目安」として扱い、会計処理は監査法人・公認会計士、税務は税理士、契約は弁護士などの専門家に確認しながら進めてください。
判定の土台になる対象会社単独の価値は、買い手向けのM&Aバリュークラウドで、対象会社の決算書3期分と事業計画から、DCF法と類似会社比較法の併用で株式価値のレンジを算定し、算定書にまとめられます。試算と評価レンジの表示は無料です。